namjun's blog

”研究で一番大事な事は工夫すること”

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ブログで「〜である。」と書くことについて

 

だんだんとはてなブログの他の方のブログを読むようになりました。

 

ある人のブログで言及されている、ある人のブログを読んだとき、なんか違和感がありました。

そのブログには「〜である。」という文体で終わっているところです。

 

普段、仕事では「〜である」という文体で書くこと多いし、

学生が「〜です。」とレポートに書いてきたら、「〜である」に修正させたりもします。

 

では、なぜ違和感を感じたのでしょうか?

検証してみました。

 

 

次の文はぼくが書いた論文の一部を抜粋したものです。意外に「〜である」という表現が少なかったので、中略しています。

 

文例1: Bozhkov らは Type IIメタカスパーゼがサスペンサーのPCD に関与していることを示した。サスペンサーの消失は発生のプログラム上のPCDの好例である。(中略)これらの実験結果から mcII-Pa がサスペンサーの細胞死を制御しているようにも見えるが、サスペンサーの分化そのものに関与しているという解釈も可能である。

何か、偉そうですね。

「〜です」に換えてみます。

文例2: Bozhkov らは Type IIメタカスパーゼがサスペンサーのPCD に関与していることを示しました。サスペンサーの消失は発生のプログラム上のPCDの好例です。(中略)これらの実験結果から mcII-Pa がサスペンサーの細胞死を制御しているようにも見えますが、サスペンサーの分化そのものに関与しているという解釈も可能です。

一転、優しくなりました。語尾を変えたら、文全体の欠点も見えてきたので、書き直してみます。

文例3: BozhkovたちはこのType IIメタカスパーゼがサスペンサーのPCD に関わっていることを示しました。このサスペンサーの消失というのは、発生の「プログラム」に書かれたPCDの良い例です。(中略)このような実験結果から、 mcII-Pa という遺伝子がサスペンサーの細胞死を制御しているようにも見えます。でも、この遺伝子がサスペンサーの分化そのものに関与しているという別の解釈も可能です。

わかりやすくなったでしょうか?

このような文章は論文や学会の要旨集にはほぼ全く見られませんが、

口頭発表ではみなさんこのように話しますし、研究者・研究室のホームページで研究紹介をするときもこのような書き方をします。

 

文例1にもどります。

これを「〜である」というところを「〜だ」に換えます。

文例4: Bozhkov らは Type IIメタカスパーゼがサスペンサーのPCD に関与していることを示した。サスペンサーの消失は発生のプログラム上のPCDの好例だ。(中略)これらの実験結果から mcII-Pa がサスペンサーの細胞死を制御しているようにも見えるが、サスペンサーの分化そのものに関与しているという解釈も可能だ。

これだけで、論文調から日記風になってしまいました。

他の語尾はそのままなのに。

 

英語のbe動詞に相当するのですが、日本語では「〜だ」と「〜である」のふたつがあります。

「〜だ」だと、筆者の内面に向かって、

「〜である」だと、読者に強く主張する効果を感じます。

 

「〜だ」は筆者の内面に向かっているので、読者は「ふ〜ん。そう考える人もいるのかあ」とあくまで観察する立場にいられます。

 

一方、「〜である」は読者に強く主張します。読者は同意できない場合は反論しなくてはいけません。

 

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論文、学会要旨集、レポートでは、「〜である」を使うのが推奨されます。

それらに共通するのは、「審査される」ということではないかと考えます。

審査されるために、主張を明確にしなくてはいけません。

それが間違えていれば却下されるということを含んで、「〜である」と書く。読者に拒否権がある時のみ使える表現だと思います。

 

一方、口頭発表も、研究室ホームページも、

「話を聞いてもらう」という立場です。

ですから、「です。」です。

 

ブログは審査されず、いくらでも自分の好きなことを書けます。

「話を聞いてもらう」という立場だと思います。

 

だから、ブログで「〜である」とは使ってはいけないと思います。